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2009年09月07日
覆面作家企画4:Gブロックの感想
これにてラスト。
自ブロックGブロックの感想でございます。
盛大にネタバレをかましています。未読の方はご注意です。
作品内から引いた言葉は『』で括っています。
お手柔らかにお願い申し上げます m(_ _)m
G01 柵の向こう側へ
レクスの描写を読みますに、イメージとしては竜と馬(orペガサス)の中間――と言ったところでしょうか。ファンタジー的に言うなれば「幻獣」というようなカテゴリに入るのかな?
その上、軍備として相当に重要な価値を持っているらしいことから想像するに、炎とか吐いたりもできるのでしょうか。もちろん空を駆けられる機動力だけでも相当なものですが、一頭単体でも強力な戦力になりそう。――と、裏読みすることはできるとはいえ、それらの描写はなく、ひたすらレクスの美しさ……それを通じて『命そのものの美しさ』を描写する姿勢に、作者さんの思い入れが伝わってくる。
そしてそれに比べるように――あるいは対照的に描かれるのが、人間の負の面の代表のような領主の息子と、その権力にひれ伏し自己保身に走る村人たちの姿。でも、作者さんは村人たちを単純に悪とは断じていなく、保身に走る人間の代表として描かれる叔母夫婦を主人公が許すことで掬い上げている。まぁ、領主の息子はどうしようもありませんけどね(苦笑
また他方で美しく描かれているのが、音楽。主人公が『今までの日々の暮らしの中で、ほんのわずかな感情の起伏だけで生きてきたのだということを、初めて思い知った。』と描かれることで、音楽の持つ豊かな「力」を描写するとともに、並行して主人公(と村人)が息を押し込めるような圧迫感の中で暮らしていることを鮮やかに表している。そして直後に現れるのが、その圧迫感を与える側代表の領主のクソ息子。やっぱこいつはどうしようもないや(笑
明と暗をうまく引き出して、その効果が綺麗に調和する巧みな構成。だから、最後の“解放”にカタルシスがある。
……んだけど。
ちょいと素直に受け取るのをやめて深読みしてみると、もしや楽団の笛吹きの少年、レクスと心を通わせられる特別な人間とかだったりするのでしょうか。
いやね? あるいはこの少年の“計画通り”だったような感じもするんですよ。レクスが心配するほど情を通わせた少女に声をかけたり、絶妙なタイミングで二度も助けにきたりと。
『君が望みさえすれば、僕は君を連れ出そう』というセリフはもしや二頭のレクスが思っていたことなんじゃ? とも思えるわけで……そう、つまり、この村のことを知り尽くしている(知り尽くせるだけの知能も持っていそうな)レクスと少年が共謀して少女に自由を与えると同時に、自らも自由を得たのではないか? と。
――や、これは明後日の方向に読みすぎかな?
G02 ノストラダムスによろしく
せ・い・しゅ・ん・だーーーい!
懐かしいですねー、ノストラダムス。何かと色々お騒がせな預言者(いや、本人がお騒がせしていたわけではありませんが。ほぼ後世の人間の解釈しだいで色々ドンなわけで)。
当時はノストラさんにどんな感想持ってたっけなぁ。その解釈は詩人のダムスさんが泣くんじゃないの? って考えてたよーな、単に馬鹿らしいと眺めてたよーな。そういや原典(の訳本)に当たったことないなぁ。図書館にでもあったら読んでみようかしら。
……ああ、話がずれていました。
しかし、それほどこのタイトルはその時代を過ごした人間としては懐かしさと記憶を誘う。それだけでも“ノストラダムス”の影響力の凄さが証明されるわけですが。
とはいえ、この話の肝はノストラダムスの予言というよりも、「明日死ぬとして、最も後悔したくないこと」で後悔したくないという衝動のみで動く少女の心の動き。
思い立ったが吉日とばかりに突撃して、標的の前で一瞬尻込みして、しかし意を決して奇襲をかけるも標的が存在せず空振り。しかも標的が自分と同じことを目的にいずこかへ……想像するに標的を狙う個体へ向けて去ってしまったことを悟って轟沈。
そして意気消沈の帰り道、過去を振り返って見せるこれまで募らせてきた想いのそれぞれが可愛らしくも切ない。好きな人がいても一筋、ではなく、素直になれないが故に犠牲者(元彼)を二人作ってしまったとか、相手の不用意な心遣いにアッパーカットで応える楽しさ不器用さとか、少々自分以外への心遣いが色々欠けている気もするけれど、それも恋する素直になれない少女の盲目さ、思春期の未熟ゆえの過ちだとほろ苦く甘酸っぱく思い出が伝わってくる。
最後に標的こと龍くんが登場した時には結末は見えたけど、逆に結末が見えているからこそ主人公のここまできての不器用っぷりにハラハラとさせられる。正露丸かー、いや、あれ効くよねー……じゃなくて! って。
ついには収まるところに収まって、後味は『ノストラダムスによろしく』とピッと手を一度振るかのような爽やかさ。
んー、酢昆布、ごちそうさまでした!
G04 道端の石 注
ハードボイルド。
で、これは純粋に現代ものかな?
一人称で語られる物語。心のどこかが乾いているような口調なれど、一方でどこか高慢さが滲む地の文。後者を感じさせるのは早々と現れる『愚問だ』の一言。これで男の性質の傾向がかなりの部分で固まったと感じる。で、それと同時に威力を持っているのは、『女』という表記。
普通13~4歳の「女」は「少女」と表すのが一般的だと思うけど、ここでは、おそらく、あえて『女』と統一されている。もし彼女が7歳くらいだったとしても、この主人公は『女』と呼ぶんじゃないかな。つまり年齢によって変化する呼称――幼女・少女・女・老女のような使い分けはせず、性別がどうか、という意識しかない。きっと、彼女が「彼」だったとしたら、ここでの表記は「少年」ではなくやっぱり「男」になっていたことでしょう。一方で、これは主人公にとって“対象”へのこだわりとか、思い入れとかを排除する役割もあって、少女を『女』と呼び続ける主人公にとっては相手の性別や年齢はさして重要ではないとも思わせる。殺した相手が親であっても『道端の石』扱いするように、主人公にとって少女はあくまで単なる“人間の女(あるいは女という性別の石)”でしかない――と(穿てば性の対象としてそう呼んでいる、とも取れるわけですが)。
その主人公の考えは最後まで変わらず、しかし、対照的に自分の親が殺されても――それとも殺されてくれたからか――笑っていた少女は変わる。いや、これはあくまで主人公の視点からすれば急に彼女がおかしなことを言い出したと思えるだけかもしれないけれど、少女にとっては主人公は『道端の石』ではなく、すでに決して殺せない対象になっている。もしかしたら本当の親には虐待を受けていたり、全く必要とされないがゆえに反動的に親への感情を無にしていた過去があるのかもしれない。もちろんそれはこちらの想像でしかないけれど、少なくとも、良い生活は送ってこなかったのだと思う。そして今は、少なくとも、彼女は主人公に“必要とされている”。
例えそれが「自分を殺すための道具」に向ける情だったとしても、彼女にとっては十分だったんじゃないかな。さらには、あるいは主人公自身気づいていない感情を、『娘』は敏感に感じ取っていたのかもしれない。
ラストシーンからすれば、主人公はこの後、逃げ出すのでしょう。
それが彼女と連れ立ってのものか、それとも一人でのものかは解らないけれど……もし、『娘』との一緒に逃亡するのであれば……最後には、二人の間にある感情のズレから、なんとなく、悲劇を迎えそうな気もするのです。
G05 素晴らしきベタな日
これ、この話を導入部に切り直して長編化すれば面白いライトノベルになりそうな気がします。
――と言いますかね!
面白すぎですトロール部長! いいなぁ! 個人的に彼の笑顔は藤田和日郎の描く“いい笑顔”で脳内再生されてました(解る人だけ解ってつかぁさい)。個人的には真正面から付き合いたくないけど(笑)傍から見ているには盛大に楽しそう。希望するのは主人公の『僕』の友達ポジション! 危険水域ギリギリにまで近づけて、なおかつ割りと安全地帯にすぐに飛び移れる茶化し役の特等席、つまり、それもまたベタもしくは王道な役なり!
……と、言いますかね?
この作品、いちいちうなずきながら読んでました。
ベタ/王道を、作品内のベタ/王道を求める立場に身を置くことで相対的にベタ/王道から外れているキャラクターに、ベタ/王道論を語らせるいうあるいはメタ的な展開。厳密に言えばこの布陣も一種のベタ/王道ではあるわけだけど、そこに本当に天然でベタ/王道の女神……もとい体現者を投入することで再び主人公と部長をベタ/王道サイドから距離を置いた存在に仕立て上げるという巧みな演出。
うぬ、書いててこんがらがってきたぞ?
……つまり、です。
この作者さん、よく研究されてますねー! しかも縦横無尽に設定を操っていらっしゃる。ともすれば単にベタ/王道論を衒うだけの話になりかねないところを、絶妙の匙加減でコメディに落とし込んでいる。そしてこれを可能にしている最大要因は、やっぱり部長の強力な個性ですね! 描写されるたびに何か段々と強い生物になってね? と思われる部長。ベタ/王道な展開を見せた転校生やほどよくマゾな『僕』をあっさりと食ってしまうキャラクター。しかし、そのキャラクターはある意味ベタ/王道のように見せかけて、実はそうではない。
ラスト、トラックに撥ねられそうになる主人公と部長。
ベタ/王道を行くのなら、これまで人外扱いの描写をされてきた部長が怪力を発して『僕』を抱えて駆け抜けるか、トラックを受け止め「ええええええ!?」ってなるところでしょう。しかして実際は、主人公と仲良く撥ねられちゃった! えええええええ!?
いやー。
感服です。
ベタ/王道の取り扱いって難しいところだけど、こうも巧く料理されちゃうと、感嘆するしかありません。
楽しかったー。
G06 深紅の森
冒頭の森の描写に「こんな場所、歩きたくねー」と心底思いました。
そうしたら主人公の心理描写で『この単調な緑が繰り返される、それだけの場所で心ごと折れそうになっているのである』とあって共感。
いや、実際単調な道ほど――それも目的地までの距離も判らず、時間の経過も分からない上に単調な道ほど、精神的にクる道はないと思います。しかも森。特有の静寂があるでしょうし、いつ目的地に到着できるかという不安からくる精神的・肉体的な疲労も半端ではないでしょう。
だからね? 思うのです。
その『陽炎の樹』を手に入れる場所に辿り着くためには、その精神的な疲弊も必要不可欠だったんだろうって。
ランナーズハイのようにテンションが上がるほど追い詰められながらもそれを求める執念と、そのようなテンションになることで入れる世界……というか、あの世とこの世の間の世界に入り込む(シャーマンのトランスのように)というか、それらの条件が合わさらないと、あの案内人とは出会えないのではないか……と、思うのです。
かつ、その上で、求める理由が『人のため』でなければ、通されない。もしかしたら、理由が『人のため』でない場合、ずっと赤い森をさまようはめになるのかもしれない。この点からはとても寓話的にも感じる。
さらに寓話的……いや、教訓的、と言った方がより正確なのかな? 色々と象徴的なのが問題の『陽炎の樹』です。
『樹』と表記されながらも、『実る』と表されたり、『枯葉』とも表される。
『陽炎の樹』という名称はその存在を表す一種の通称だとも受け取れるのだけれど、作者さんはここらへん自覚的にこの名前を扱っていると思うんですよねぇ……。
だとしたら一体何を示そうとしたのだろう。
例えば手渡された『陽炎の樹』が『枯葉』の形をしているのは、自然界における枯葉(あるいは枯れ木)が次代のための栄養になることを比喩しているのかもしれない。その木が枯れることと引き換えに、宿屋の娘が助かるわけだし。
じゃあ、『実る』は何だろう。少女のセリフは『ここに陽炎の樹は実る』。この文章からは「陽炎の樹は(何かを)実(らせ)る」のような使い方とも取れるし「陽炎の樹は(=が)実る」とも取れる。前者とするならば、もしや、あの白い大樹の葉の一つ一つが、主人公の歩いてきた森に生える大樹一本一本の“生命”を象ったものなのかな。だとすれば、その『枯葉』を使うには『大樹の寿命と引き換えに』する必要がある、っていうのにも素直な関連が生まれるし。
もちろん、全て僕の滑りまくりの妄想という可能性もあるのですけどね(^^;
G07 父へ
息が詰まる。
経済的なつながりはあるとはいえ、幼い頃に別れたきり、およそ父娘としてのつながりなど持ってこなかった主人公の、その『赤の他人と大差ない』と言えるにしてもやはり会うともなれば幾重にも糸が絡んだかのような――しかし、もしかしたらひどく絡まっているように見えて端と端を持ったらするすると解けるかもしれない――複雑な感情を抱かざるを得ない相手の元へ向かう道中の、その胸中。
無駄に時間を潰したり、不器用ながら妙に愛嬌を感じさせる……娘のblogの更新を毎日楽しみにしているんだろうとか、それを温かく見ているんだろうとか、その眼差しはきっと目尻が垂れた優しいものなんだろうとか、そういった愛情を感じさせる父との思い出を手繰ったり……ああ、何だかじんわりと、鼻がつーんと。
終始淡々としているけれど、潮風に煽られているかのように、それとも潮風が運んでくるかのように、一定の(おそらくは“努めて一定の”)流れの中に様々な色や香りが混じる。
郵便局の赤、真新しいウッドデッキの匂い、潮に打たれて古ぼけた建物、土と植物と肥料ともしかしたら薬の匂いも混じらせる畑。
それらを通り抜けて主人公が目的地に辿り着いた時の安堵感。
そして、最後に冒頭近くの『赤の他人と大差ない』に続けられた、『大差ないと、そう思う。』に秘められた感情が音もなく爆発する。
最後の一文の、『道ですれ違ったところでお互いわからないだろう』と言いながらもただの一目で父を理解した主人公の言葉が、それまで二人の間に長く横たわり続けていた空白をギュッと圧縮して重みを増したかのように感じさせ、年老いている男と、その彼の家に「悪戯」をして逃げ出した女性……その時ばかりは“子どもに戻った娘”の静かな再会を派手ではないのに鮮烈なドラマに仕上げている。
そしてまた、息が詰まる。
瀬戸内の風景にその再会を想像し、僕は息を詰まらせ、そして、静かにページを閉じたのです。
G08 かつて歩いた道
結衣ちゃん、いい子やなぁ~。
この子、ママのこと気遣ってるよ。田舎に行きたいっていうのはもちろん自分の好奇心のためもあるだろうけど、子供心に母親の「危険な精神状態」を敏感に感じ取っていたんじゃないかな。母の仕事を気にかけるのも、逆に母が仕事に頼らないと心を張り詰めた状態に保てない――みたいなことを悟っているのかもしれない。
……と、娘さんの姿からそんなことを感じながら、これまた息が詰まる。
離婚した親を持つ、離婚した母親となった主人公の、娘との小旅行を通じて語る心の物語。
主人公が自分の幼い頃の、ある意味最悪の思い出が残る地を、娘が田舎を希望したからといって旅行先に選んだのは一体どうしてなのだろう。中盤から終盤にかけて、そんな違和感を感じていました。
だって、確かに地に理解のある場所だとしても、確かに子にとって親が昔いた場所というのは興味を引かれる所だとしても、彼女にとってはそこに行けば苦味が戻ってくる――ということは容易に想像がつく場所でしょう? いくら自然に思いついたとしても、思いついた瞬間に後述される「怖さ」が蘇ってこないはずがない。蘇らずとも、躊躇いくらいはあっていい。しかし主人公は……もしかしたら、導かれるように娘とその場所に向かう。向かって、やはり郷愁と共に幼少期の頃の記憶を蘇らせ、“楽しい”とはいえない時を過ごしている。作品の中で中心に描かれていくのも、娘と笑いあう光景ではなく、過去の情景。
そして、やがて、『わたしは娘の瞳の奥にも、かつてのわたしと同じ怯えがあることを知った』という文を見て、僕は納得したのです。
主人公は、娘の姿に過去の自分を、彼女自身が気づかない内に重ね合わせていたんじゃないかな? と。
主人公自身は「気づいていない」けれど、もうずっと娘の中にある自分が感じたものと同じ感情に「本当は気づいていた」んでしょう。だから、それを確かめるように、かつて自分がその情感を感じた場所に身を引き寄せられた。そして自分が今置かれていた状態……先の方で描かれた育児疲れの母親のようにやつれてはいないけれど、表面的には元気で強いけれど、内心では折れるか折れないかの状態ギリギリであった本当の自分の状況に気づいた。
これは、『かつて歩いた道』を歩くことで、自分を顧みる儀式だったんじゃないかな? と、思うのです。
そう思うと、ここまで何度かくり返された、『母に手をひかれて歩いた、わたし自身のよう』とか「当時の自分の行動範囲の限界だった川」に娘を連れてくるなど、娘に過去の自分を投影する表現までもストンと落ち着くところに落ち着きもする。やっぱり、彼女は無自覚に自覚していたんだろう、と(また、『もしかすると娘は、父親と母親を一度に失っていたのかもしれない。』を読んでから『靴を脱がせてやると、結衣は川に向かった。ただ、すぐに立ち止まって振り返ると、わたしの姿を確認した。』のシーンを思うと、娘さんは母親がそこに確かに“居る”ことを確かめていたんだろうな、と)。
ラストまで危うい気配もどことなく感じていたけれど、主人公が「自覚」をしてからは鮮やかとも言えるほど新鮮な空気が流れ込んできて、主人公が口にする『仕事』も、娘さんの笑顔も疑いなく前向きに捉えられる。
気づいたのなら、きっと大丈夫でしょうね。これから先、この母娘は。
幸せな人生が、二人にあらんことを。
G09 畦道の少年
さ・わ・や・か!
そして漫才コンビのような二人のやり取りが微笑ましく、楽しいこと。
そして、ああ、いいですねぇ。こんな風に自然を相手に遊べる環境。何だかいちいち子どもの頃に遊んだ田んぼや用水路とか思い出してました。
その頃住んでいたところはさすがにカブトエビがいるような場所ではなかったけど、田んぼにはおたまじゃくしくらいはいるところでね? だから、二人の少年が夢中になってカブトエビを追いかけて手を動かす様がありありと目に浮かぶし、『動きがとまると泥と同化してしまうようで、生き物というよりはただの土くれにも見えた。』っていうのも本当に目に浮かぶようで! そうなんですよね。田んぼの泥に隠れられると、一瞬姿を見失ってしまう。よく見るとどこにいるか判るんだけど、逆によく見てないと簡単に逃げられてしまう。
そして、そう!
一見、ただの水のようにも見える田んぼにはカブトエビやおたまじゃくしのようにわりあい目に見えやすい生物の他にミジンコのような小さな生物もいるんですよね。『ペットボトルを横から眺めると、カブトエビが器用に無数の足を動かして泳いでいるのが見えた。たんぼから汲んだ水には、ミジンコなど他の微生物も泳いでいる。』の一文が、子どもの頃に見ていた世界の……目に映るもの全てがワンダーワールドな気持ちを一気に蘇らせてくれることといったら!
プラスチック製の虫カゴに水を汲んだとき、それを横から覗いた時のあの感覚、嗚呼……楽しかったなー。ミジンコとか名前も知らない微生物はあの大きさで、あの透き通った体で、どこか機械的にもただの塵芥のようにも思えるのに確かに生物で、生きていて、それを夏の日差しに透いて見た時のあのセンスオブワンダー!
今では昔遊んだ田んぼはなくなってしまっているけど、その記憶は間違いなく僕の財産。そういったものが、この作品を読んでいて、大人になっても微笑ましい仲の良さを見せる二人の姿を通して胸に去来して。
作品自体は明るくて爽やかなのに、そして読感も明るくて爽やかなのに……何だか、しんみりしちゃいました。
って、ラスト、ソフトモヒカンて!
昌浩くん、今何やってんの!?
G10 草いきれの道
単純にページ数を考えると短くまとめられているのに、その短さが逆に長く感じる。読後感は……ズドン、と、重い。
先の大戦後、おそらく、同じような後悔を抱え、同じような境地に達した方々はたくさんいらっしゃると思う。作者さんは……このお話を、どなたからかお聴きになったのでしょうか。それともモデルとなる話を。
余分な言葉のない語りから、まざまざと草いきれが鼻を突く光景が目に浮かぶ。その光景を前に中隊長と交わした会話の、言葉の少なさに比例するような重苦しさ。けれど重苦しいのに、どこか諦観じみたものを感じ、それはある種の潔さを感じさせる。その後の、その時何が正しく何が正しくなかったのか、その間で煩悶する主人公の苦悩に、『被爆地である長崎』の言葉が持つ不安感・絶望感が重なって息苦しい。そしてまた生き苦しさの中で、老いるに従って心を守るために変容した記憶に忸怩たる思いを抱えているのであろう言葉の中に見る、『私の地獄はそんな貌をしている』という一言。
ズドン、と……重い。
読後、しばし、僕はじっと文面を見続けるしかありませんでした。
G11 旅は道連れ世はソーダ味
まさに世はソーダ味!
甘くて、爽快で、けれどどこかちょっぴり苦くて、舌を刺激する辛さもあって、それらがまた甘さと爽快さを引き立てて。
もちろんソフトクリームとなっているから炭酸飲料のソーダの味そのものじゃないだろうけど、冷たくて舌に触れると同時に溶け出す柔らかなクリームの味を思うだけで、ん! 爽やか! 目の前に広がる海と空の青と、砂浜の黄、ソフトクリームの青とコーンの黄が対称的に目に浮かぶ。うまそーだー!
しかし。
この物語にあるちょっぴり苦くて辛い色は、「冒険」に出る子どもの高揚と緊張と興奮の中に、強烈な「現実」を混ぜ込んでくる。
でも不思議なのは、その「現実」は読者の立場にいる僕たちにとっては軽く扱えない重さを持っているのに、作中では、地の文がまだ幼い子どもの元気な一人称で描かれていることもあってか絶妙に「冒険」に溶け込んでいること。言葉が適切か分からないけど、いわば“メルヘン”の趣すら感じる。子ども時代のみに感じることのできる感覚、と言うのかな。確かな現実であるのに、現実という実感が心の中で一体化しないというか……いや、逆かな、現実と自分という個の間に明確な境界を描いた相対化がされていない、現実と自己の境界がまだ曖昧であるがゆえに二つがおよそ同一のもの(切り離せないもの)と認識されているような感覚。
ヤマンバな――そして口は悪いが親切で優しいお姉さんも、その彼女に悩まされているらしいお兄さんも、戦時中の記憶の断片に突き動かされているおじいさんも、なぜか千円札が投入口に入らなかったりたまたま一緒の電車で並んで席に座っていたりその電車にトラブルがあったりと奇妙な縁で結ばれた面々が、ラムネの瓶の中で不規則に、だけど何だか規則的にパチパチと弾ける泡みたいにこの作品を彩っていて。
そしてその泡を見ているときのような、妙に幻想的な趣を見せていて。
だから、ラストの結びが秀逸。
確かに『画期的でフクザツ』、堪能いたしました!
G12 エバーグリーン
さあ、覆面作家企画4、僕にとって最後の作品。どのような話かな?
……畏ッ!
最初は『G11 旅は道連れ世はソーダ味』みたいにちょっとした「冒険」なのかな? と思ってたのですよ。都会に疲れた女性が息抜きに田舎にやってきました。そうだ、○○に行こう――みたいな。
……全然違いました。
『ウタさん』という人物が現れてから、作品の温度が変わった。思えばここら辺から掴みどころのない表現が続いてくるんですよね。黒い車に対する表現とか。
そしてこの作者さん、比喩表現がうまい。『色あせた海のポスターを眺めていると、遠い木々のざわめきも潮騒のように聴こえてくる』なんて詩的だなーと感嘆して、それ以降、描かれる表現に自然と目を奪われ、かつ当然のようにそれを追っていくと、段々、段々、作品の情景、主人公の心象描写に幻惑されていく。
つきまとうのは、どうにも『ウタさん』ではなく作者さんに煙に撒かれているような感覚。『眉間に指を突きつけられたときみたいに、ヘンな気配が耳の奥でぞわっとふくらんで、わたしは上手く呼吸ができなくなる』と作中にあったけれど、そう、その直前、段々と眉間に指が迫ってくるのを見ているような感覚が、ずっとつきまとう。
それにつれて不安もつきまとい、そしてついには、あれ? 初めは旧知の仲であるように言葉を交わしていたのに、主人公は知らない? じゃあ主人公のことを旧知の仲のように扱う『ウタさん』は誰? と疑問に思ったところから、「神の領域」の描写に熱がこもる。摩訶不思議な錦鯉(昇り、竜になる?)から始まり、苔生した参道、日本風土の神体として実に説得力のあるその“神の姿”。
『ひきずりこまれる。ひきずりこまれる?』の主人公の心境は胸に迫り、こちらも作中に溢れる恐怖……否、畏れにひきずりこまれそうになる。
そこから――はた、と、ひきずりこまれない場所に立ち戻るのは、『ウタさん』の正体が明かされた時。彼女(?)はおそらくは、神の使いか、それに準じる存在なのでしょう。そしてどうやら既存の世界を壊せる可能性を持った主人公に、目覚めの萌芽を促した。それとも、手伝った?
巨大な神木を前に語られる会話は抽象的で、印象的。
一本の短編として見た時は、この長編への導入を思わせる存在と展開に“我に返らせられてしまう”のがちょっと残念だったけれど……作者さん、もしかして、相当壮大な世界観を裏に用意なさってます?
掴みはオーケー。支度は上々。
この後の話は、一体どうなるのだろう。
そう思いながらページを閉じた時、浮かぶのは緑色の双眸。
主人公は眠りから“覚めた”時、一体何を思うのでしょうか……。
Gブロックの皆様。
同じブロックで参加させていただけて、とても楽しかったです。
ありがとうございました!
投稿者 楽遊 : 2009年09月07日 22:42
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