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2010年03月16日
私はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい(ヴォルテール)
時事ネタの記事はほとんど書いてませんが、さすがにこれは。
都条例「非実在青少年」規制問題について(たけくまメモ)
反対です。
こんないくらでも恣意的に判定を下せるようになったなら、いくらでも別件逮捕することも可能でしょういくらでも“気に食わないから”というだけで規制することが可能でしょうし、“規制側が気に食わないもの”をなくそうとすることも可能でしょう(調べなおしたら現時点で即座に逮捕は言い過ぎでした)。
ことは表現の自由に関わる問題だけではないと思います。
それに、
「非実在青少年」だけではない、東京都青少年健全育成条例改正の問題点
こちらも。
こういう規制案を見聞きするたびに思います。
つまり規制したい人たちは自分たちの社会の持つ教育力とか、自分も含めた社会の力では問題(あるいは問題にしたいこと)を抑えられない――ひいては自分(あるいは個人、またはそれぞれの属するコミュニティ)には己も含めた人間が構成する社会を変化させていく力はないと、知恵をめぐらすこともなく一種の『敗北宣言』を垂れているだけじゃないか、と。
そして僕はそういう宣言をしちゃう人たちが掲げる綺麗なお題目が、本質的に該当の問題を解決する手段として必要な力を有しているとも、そもそも問題を根本的に、それとも根本に近しいところから解決していくための手段に目を向けているとは信じませんし、信じられません。
(タイトルはWikipediaの『ヴォルテール』より引用)
投稿者 楽遊 : 2010年03月16日 22:55
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コメント
こんばんわ! 遊びに来ました!(すごく熱い文面ですが!)
先日ここの記事を見てから、何とかまとめようとしたんだけど、やはり無理。結局長文(笑)メールの方がいいかも?
私は別ネタから東京都の青少年健全育成条例って厳しいな、と思ったことがある。今回はイメージが規制の対象らしいけれど、都議会は性教育でも厳しい方針だったと記憶しています。HIV感染を予防するための性教育で、コンドームの説明が出来ないことや、性教育自体を拒否する考えがあって、都議会の決定はカトリックっぽいなと話していたことがある。
楽遊さんの怒りの矛先がちょいと見えにくいけれど、私は双方のぶつかり合いが面白く見えるよ。規制はともかく、私はその考えの元になっているものが、青少年を犯罪に巻き込まないため、という認識である点を評価している。だから、私が問題にしたいのは、犯罪予防に規制が効果的かどうかという所。言論の自由とはちょっと意見が異なるかもしれないけれど。
ネットで青少年向けのR表現が増えているな、とは感じたことがあるので、個人的にはその議論は面白そうだ。規制して困る人たちって本当のところはどんな人だろう、と思うとね。(実は私もちょっと影響を受ける、R指定を書きたいからさ)つまり、ダークサイド小説を書く人のほとんどは引っかかるということだ。世の中はきれいなことだけで成り立つわけではないから、そこに文句を言う方法として、事実を残酷に描写して訴える人は全てここに分類される。官能小説とホラー小説は、腕試しみたいなところがあるので、忌避する感情の全てを規制されると表現が狭くなるという意見も分かるな。
でも、今、ネットはどんどんR指定が侵食している。私も自由に書いていた時期があるから人のことを言えないけれど、やはり見ていて気持ちの良い現象ではない。親が子供にかけるフィルタリングも一般社会では「かけるのは当然」という思考回路だ。規制してたってほとんどザルなのは分かってるが、かけないと親としての倫理観を子供に示せないから。
問題はイメージを規制するかどうか、だけど……これも私はやや規制よりだなあ……(頭が固いかな?)というのは、二ー三年前にそういう医学記事を読んだことがあるからだ(誌名を忘れた、公衆衛生だったかな?)。結婚後に少年愛に走ってセックスレスになっている男性が日本は多い、とか。彼らの情報入手先はインターネットで、かくいう児童ポルノである。
都議会がイメージの規制に乗り出すって聞いても「なるほど」と思ってしまうな。犯罪と言う意味ではなく、少子高齢化の影響で。(笑)
投稿者 tomoya : 2010年03月22日 19:00
こんばんは、tomoyaさん。熱いコメント、ありがとうございます。
あ、でも、先に書いておきますと、メールを即返ししたのは単純に時間があったからですよ。夕方に気づいてから送信までほとんどかかりきりで返信書いてましたので(^^ヾ
それと、熱を入れたのは本題の『文学』についての方でして……果たして勢いで書いた(今思うとちょっと恥ずかしいかも、な)持論にどのような反応が返ってくるか、実はそちらが楽しみなのです(^^)
とはいえ、これだけのコメントを頂いたのですから、さらりと返しては失礼ですね。
さて。
> 楽遊さんの怒りの矛先がちょいと見えにくいけれど
こちらはこの記事では論点を明確にしませんでしたし、さらにこの問題には様々な角度から問題視できる点があるので、正直「反対」以外にまとまった言葉がありません。
僕が(この件について)あえて焦点を絞ろうとするなら、まず
――『性表現について規制側(権力)がこれは正しく、これは正しくないと選定し、かつ、曖昧な文言で規制対象を定めているので恣意的な運用がなされうる』
という点について明確に反対の姿勢を取ろうと思います。
極端な例になりますが、
“16歳の少女が性行為に溺れ、その快楽を与えてくれる男を「愛して」結婚をする。しかし男は少女を性の道具としか見ておらず、結婚も法的に妻であるほうが利点があるためであったが、少女はその結婚を自分が「愛されて」いる証拠と誤解する。二人の行う性行為は次第に過激さを増し、少女はさらに快楽を求めて身を滅ぼしていき、最後には男に飽きられ捨てられる。捨てられて初めて少女は男に求めていたのは「快楽」のみに過ぎず、男を「愛して」いたのは快楽を与えてくれる者への依存という感情であり、それを「愛」だと錯覚していた――倒錯した愛情だったのだと悟り、自分に残ったものは様々な媒体に流れた己の痴態と希望の失われた未来だけであると知る”
という作品を通じて“愛と性愛についての考察”や“過激な性行為のリスク”を作者が読者に伝えようとしたとします。そしてその作品においては“過激な性行為”の描写が必要不可欠な形で取り入れられている(形は違いますが、そうでなければ『HIV感染を予防するための性教育で、コンドームの説明が出来ない』状態になる)。
ここで作品全体の主張は「愛と性愛の差異への一つの考えを提示すると同時に、少女に対する性的な対象として消費される危険を示し、その危険に安易に身をさらせば主人公のようになってしまう可能性があると注意喚起をする」――ということであったとしても、どうでしょう、規制側が「こんな描写はけしからん!」と判断してしまったら。あるいは法的には16歳という年齢は女性が結婚可能な年齢にも関わらず、「16歳で結婚などけしからん! しかし法的には問題ない。だがけしからん。だから性描写を問題にして16歳での結婚という描写を排除しよう」と恣意的に判断してしまったら。
もし、そうなるとしたら、tomoyaさんの仰る
> 青少年を犯罪に巻き込まないため、という認識である点を評価している。
と言う点についても、大きな矛盾を抱えないでしょうか。多様な性の観点・価値観について、これは正しく、これは正しくないと、一つの組織の思想のみによって判断されてしまっては、他の手法・思想(考え方)から『青少年を犯罪に巻き込まないため』に活動をしようという人の“表現”の手段を奪ってしまう――ということに関して。
ですから、そのような可能性があり、他にも表現者への萎縮効果などの危惧する可能性がある以上、この点について僕は反対するのです。
また、僕はこの『青少年を犯罪に巻き込まないため』という点には反対はしませんし、反対をしようというつもりもありません。
ですが、この案の成立過程において、『青少年を犯罪に巻き込まないため』に必要な意志やその方法論を正確に捉えようとする姿勢等は、正直あまり伺えません。
(こちらに引用されている部分等→ ttp://heboro.blog.so-net.ne.jp/2010-03-19 や ttp://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100319_hijituzai_seisyounen/)
> 犯罪予防に規制が効果的かどうか
という点については、こちら( ttp://hirorin.otaden.jp/d2010-03-18.html )に一例があります。もちろん性犯罪の統計には“暗数”(つまり「表沙汰にされていない」性犯罪の存在が無視されている可能性)を鑑みる必要もあるでしょうから、これが絶対の相関だとはいえませんが、まるで論拠がない、という状態よりはマシだと思います。
この点では、最後に
> 結婚後に少年愛に走ってセックスレスになっている男性が日本は多い、とか。彼らの情報入手先はインターネットで、かくいう児童ポルノである。
という例に関しては、結婚後ということはそれは既に男性なら18歳以上の人間のする判断です。およそ成人である場合がほとんどでしょう。であれば、これは個々人のそれこそ少年愛という“思想の自由”になりますし、セックスレスという点は夫婦間の問題でもあります。もしこれが『少年愛を求めて性犯罪を行う』という結果でしたら話も変わりますが、この件についてはまた別の問題となるでしょう。
おそらく、ここまでで、僕の矛先の向きはお分かりいただけると思いますし、この点については、tomoyaさんが『全てを規制されると表現が狭くなるという意見も分かるな』というところでご理解していただいている箇所だと存じます。
あ、念のためにつけくわえておくと、tomoyaさんが僕が記事で示したことに関するものへの反論者だと認識しているわけではありません。
また『表現の自由』をことさらに盾にするつもりもないことも明記しておきますね。
まだ考えがまとまっていないのですが……エントリにするべきかなーと思って書きかけていた文章を一部抜粋しますね。
***
『表現の自由』は『表現されたものが受け入れられること』までは担保しない。そして『表現されたものを受け入れない自由(思想の自由)』を侵害するものでもない。もし『表現の自由』を笠に着て、ある種の表現を受け入れず排除しようという者に対して「表現の自由を侵害し、表現物を受け入れないお前はおかしい」と主張することがあったとしたら、それは表現物を規制しようという心理と本質的には同じだろう。『表現』と『受容・許容』の間で軋轢が生じた場合、おそらく、この点において両者の間に最大の問題・誤解・衝突が生まれるのだと思う。
***
です。
この文章の次には、流れからしてゾーニングのことを持ち出してくるつもりでした。
そして今回、tomoyaさんのコメントを拝読して、思うに、最大の共通の焦点、となるであろうことは『規制』ではなくむしろこの『ゾーニング』という点であろうと推察しています(もしかしたら、互いにこの両者を同じ意味で使っている可能性もあります)。
ただ、このゾーニングの基準も難しいんですよね……。
僕は自身のサイトでは『中・高校の図書室に入ってそうな本』を基準にしてレーティングをかけています。ただ、それだと結構過激な“文豪”の“文学”が盾になってくれますので(ちょっと皮肉な書き方になっています。ご容赦を)、現時点ではサイト上にR指定が必要と判断するものはない、という結論になっています。
が、それだと甘い、と仰る方がいるであろうことも承知していますし、その主張に理解をしているつもりでもあります。――けれど、僕の基準は社会的に大きく逸脱はしていないだろう、ということも。
ですから、どこまでの描写をどういう区分で分けてゾーニングするかは、明確な境界線ではなく、不明瞭なれども境界線を描いて作られるものであり、その境界線をどこに置くかの擦り合わせが難題であるんでしょうが……
ああ、でも、もちろん、あからさまで具体的な性行為描写が出てくるようでしたら、自サイトでR18にすることに異論はないのですけどね(^^;
この点について問題の改正案について語るならば、ここらへんのものは既に現行の条例で対応可能なものですので、改正して余計な文面を入れるのではなく、運用面を見直すことが先だろうと考えています。
(今回の件については僕も考慮すべき部分が大きかったと反省する点が多いのですが、その一つに、この規制とゾーニングが混同している部分が混同している部分があったという点があります。
参考 → ttp://d.hatena.ne.jp/kleinteich/20100319/1269061598
参考先のこういった意見等を読んで、論点のズレを認識した次第で。いや、お恥ずかしいです(汗))
そして……
正直な所を言うと、僕も、ネットに限らず現実でも青少年向けのR表現が氾濫していると感じますし、一定の栓の下で氾濫しているのならまだしも、人目につき過ぎていると感じています。
さすがに精液まみれの少女が股を開いて見せつけている表紙を飾る雑誌がコミックコーナーの目立つところにあったりするのを見たりすると、おいおいそれはどうよ、と思いますし、けしからんというよりは「自爆したいの?」とも思います。まるで自分から私たちはこんな性癖を持っています! 気に入らない? 知るか! と主張しているようでもありますから、そんなんじゃあ“相手”に要らぬ警戒心を与えて攻撃対象を自ら晒しているようなもんだと。これが影でひっそりやっているなら話は別ですけどね。(子供心に、昔、書店の区分けされたアダルトコーナーの入口とそこから覗く風景が恐ろしく異様に見えたのを覚えています)
同様に、検索サイトなどでいきなりアダルト系の広告が表示されているのを見た時も同じ感覚を抱いています。
一言で言って、
『裏でやれ』
もし裏にまで踏み込んでくる青少年がいたら(いるものですが)、しかしそれは青少年側の問題です。そしてもし見つけたら追い出せばいい。それでも性に目覚めた青少年はあの手この手で踏み込もうとするでしょう、逆に、時には去るでしょう。もちろん青少年が見るのは裏通りだけではなく表通り(誰が見てもいいとされる社会面や社会通念)も見るでしょう。裏に一定の正道をみることもあれば、表に非道をみることもあるでしょう。その揺らぎの中からバランス感覚を得るのだろうし、それを促すのがゾーニングをかける側の心構えだろうと考えます(さらに突っ込んでいえば、本来は性教育もそのバランスをとるための一助であるのでしょう)。
もし、ゾーニングをしておきながら踏み込んできた青少年をより“こちら側”へ引き込もうというのなら、規制したいという側に明確な抗議をすることは難しいでしょう。また、ゾーニングをしていなかった場合にその点を責められるのは当然のことだとも。
そしてこのゾーニングと表現の擦り合わせで苦悩するのは、表現者の表現をすることに付随する苦悩の一つでしょうし、責任なのかなと。
そう考えています。
投稿者 楽遊 : 2010年03月23日 02:47

